越智貴雄

「パラリンピックを伝える」プロジェクト

パラリンピックを伝えるプロジェクト

【何故パラリンピックを撮り続けるのか!】

 パラリンピックとの出会いは2000年のシドニー大会だった。そのときの衝撃は、今でも忘れられない。

 当時、大学の写真学科在学中だった僕は、シドニーオリンピックを撮影したいという一心で大学を休学、アルバイトで貯めたお金を握りしめシドニーに渡った。運良く新聞社から依頼を受け、オリンピックの撮影取材に携わる事ができた。五輪選手の迫力や連日連夜の会場や街のお祭り騒ぎを肌で感じることができたことは、とても素晴らしい経験だった。

 そして、五輪が終わり帰国準備をしていると、今度はパラリンピックの撮影依頼が舞いこんだ。喜んで受けた撮影だったが、いざ撮影をする段になって正直たじろいでしまった。「そもそも障害を持つ人にカメラを向けていいのか?失礼にあたらないか?」と。こう考えてしまった自分の心の根底にあったのは「障害のある人はかわいそうな弱者で、手助けをしてあげなければいけない人たちだ」という思いだ。

 しかし、その根拠のない不安はパラリンピックの競技を見た途端、どこかに吹き飛んでしまっていた。アイマスクをした選手が100mを11秒台で目の前を駆け抜け、走り高跳びでは、右足の太ももから下を切断している選手が片足けんけんで助走をしながら1m87cmを跳んだ。車椅子バスケットボールでは、車椅子同士が激しくぶつかり合い車椅子ごと引っくり返った。さらに、車椅子の片輪を宙に浮かせながらのシュートは、自身の想像をはるかに超えていた。正直度肝を抜かれた。人間の持つ潜在能力の高さと可能性に興奮しながら、無我夢中でシャッターを押し続けたシドニーパラリンピック。“障害”という言葉に対する価値観や考え方が大きく変わった大会でもあった。

 シドニーから帰国後、写真展を開催(2001年5月銀座ニコンサロン)。ある来場者の「こんな激しいスポーツをして障害が重くならないんだろうか? かわいそうだ!」との感想にショックを受けた。スポーツとして素直に感動してシャッターを押し続けたはずだったのに、自分の思いが写真で表現できていない。伝わっていない。悔しくて仕方がなかった。

 以降、どんな大会にも出かけシャッターを押した。

 そして、ある陸上の車椅子選手に出会った。彼をすごく好きになり、彼の魅力に惹かれて、国内外の大会、彼が出る大会はできる限り追いかけた。以来、追いかけたいという思いに駆られる選手がどんどん増えた。どの選手も、スポーツ選手としての魅力に溢れていた。もちろんスポーツ選手として魅力のある人は、間違いなく一人の人としても素晴らしい人だった。

 今、写真展を開催する機会も増え、来場者の反応も少しずつ変わってきている。「元気が出た」「障害がある人が頑張っているんだから私も頑張ろうと思った」と言われる事が多くなったのだ。少しはましな写真を撮れるようになったのかもしれない。しかし、目の前にいる選手のかっこよさと、「スポーツって面白い!」、単純にそう感じてもらいたいために、これからもシャッターを押し続けたいと思っている。

【越智貴雄の願い】

 パラリンピックがメディアで紹介される際、“障害者スポーツの祭典”といわれるが、僕はその表現にとても違和感があります。では、他にいい表現があるのかと聞かれても、残念ながら今すぐには思いつかない。ただ、パラリンピックの「競技スポーツ」としての認知が高まれば、違和感のある紹介自体がなくなっていくのではないかと思う。僕としては『パラリンピックでは、義足をカッコ良く履きこなす選手がいる』とか 『今度のパラリンピックには○○選手が出場するから楽しみだ』とか思われるようになればと願っている。

・フォトギャラリー

http://www.ochitakao.com/gallery/para/

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